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卒論「備中神楽と記紀神話」絶対クリスマスまでに終わらせる!※随時更新

ノートルダム清心女子大学

備中神楽と記紀神話

 

 

 

現代社会学科4年岩本 梨沙

2019/11/05

 

 

 

 

 はじめに

 本研究では、岡山県内のうち備中地方で古くから舞われてきた備中神楽と神話の関連性に関して取り上げる。すなわち、古い形態の神楽に、岡山県高梁市成羽町()出身の西林国橋が神話劇を仕組んだ過程に関して、明らかにしようとするのである。備中神楽と記紀神話の関連に関する先行研究を分類すると、演目の変容に関する研究、神職組織・西林国橋に関する研究に分けられる。先行研究の限界は、演目の変化と神職組織の両面からによる、体系的な理解ができないことである。そこで本稿では、演目の変容に関する研究と神職組織に関する研究を照合し、できる限り体系的に、備中神楽がいかにして変革されたのか、明らかにしたい。

 備中地方で古くから舞われている備中神楽だが、現在のように神話劇として舞われるようになったのは、国学者である西林国境が「神代神楽」、すなわち神話を取り入れた神楽として整備して以降である。

一方芸北地方では、整備の進んでいない神楽が残されている。(先行研究)本研究では、備中神楽にどのように神話が取り入れられたかに関して、古事記及び芸北神楽と比較し、考察する。また、備中神楽と記紀神話に関する数少ない史料を照合・整理することにより、備中神楽がいかにして現時点のものとなったのか、明らかにしたい。本研究では、備中神楽と記紀神話の関連について探究することを目的とする。すなわち、国橋がいかにしてこの備中地方に記紀神話を用いた神話劇を取り入れたか、探ろうとするのである。

しかし、国橋の史料は大半が焼失していることから、彼が何を思ったかは分からないというのが分からないというのが現状である。しかし、備中神楽と記紀を、あるいは芸北神楽と備中神楽を比較検討することにより、原初的な神楽とはどのようなものであったかを導き、国橋が原初からいかにして備中神楽を変革したか導くことはできるのではなかろうか。以上のように、少ないながらも現存する史料、あるいは研究成果を読み解くことで、備中神楽の整備過程を解き明かすことが、本研究の最大の目的である。以下に、本研究の構成を示す。

 

はじめに 

1章 研究対象に関する研究史

1節 備中神楽の研究史

2節 芸北神楽の研究史 

2章 備中神楽と芸北神楽・記紀神話の相違点

1節 備中神楽と芸北神楽の相違点

2節 備中神楽と記紀神話の相違点

3節 考察

3章 古態の神楽 

1節 神代神楽以前の備中神楽の演目

2節 古態の神楽

3節 考察

4章 備中神楽の整備過程

第1節 神職者・西林国橋に関して

2節 神職集団による神楽変革

3節 考察 

おわりに

1節 結論

2節 今後の課題

付録 現代の備中神楽 

 

1  研究対象に関する研究史

1節 備中神楽の研究史

備中神楽とは、荒神信仰を基盤としているために荒神信仰とも呼ばれる神楽である。備中地方には中世からの地縁的組織の名 が発達しており、その名を基盤に荒神式年祭祀の荒神神楽が社人たちによって伝えられてきた。この社人たちの神楽に、文化文政期(1804-1830)に備中成羽の神職である西林国橋が創案した神代神楽(「岩戸開き」「国譲り」「大蛇退治」「吉備津」から成る)を導入して完成したのが備中神楽であり、非常に分かりやすい形式を持つ(三村,2013:203-204)。

備中神楽に関する先行研究を概観・大別すると、5つの異なるアプローチが見いだせる。

1つには、演目の変容に関する研究である。岩田勝、1983「いわゆる神能三曲の源流と変容過程」『神楽源流考』名著出版においては、神代神楽の演目の変容に関して記載されている。あるいは、「山本又三「備中神楽と記紀-神体神楽その一『天岩戸開き』」(2018年10月1日最終閲覧)、山本又三「備中神楽と記紀-神体神楽その二『大蛇退治』(八重垣の舞)」(2018年10月1日最終閲覧)山本又三「備中神楽と記紀-神体神楽その三『国譲り』」(2018年10月1日最終閲覧)では、備中神楽と記紀神話の比較研究が行われている。

2つ目は、神職組織・西林国橋に関する研究である。畑中良介、2003「仏教土着―西林国橋の神楽変革を中心に―」大桑斉編『仏教土着』法蔵館では、神職の組織が備中神楽を改変したことが示されている。神職組織・西林国橋に関する研究は、研究数が少ないため、より文献を集める必要はある一方、研究する余地もあると考えられよう。

3つ目は、神楽の組織に関する研究である。神崎宣武1984『備中神楽の研究―歌と語りから―』岡山県美星町教育委員会においては、主に美星町の、神楽を行うムラの組織に関して、成羽町編集委員会 編、1991『成羽町史』成羽町においては成羽町における備中神楽の組織に関する研究成果が示されている。

4つ目は、社会学的な研究である。文部省編、1970『文部時報』山根 堅一「庶民の中に生きている備中神楽(現地ルポ-10-)」文部省、俵木悟「民俗芸能の実践と文化財保護政策--備中神楽の事例から」、俵木悟「『正しい神楽』を求めて : 備中神楽の内省的な伝承活動に関する考察 (松崎憲三教授退任記念)」(2018年10月1日最終閲覧)等が存在する。

5つ目は、工学的な研究である。徳永修一・大崎紘一・玉本和史、2002「備中神楽面の表面の木目に関する研究」詫間電波工業高等専門学校編『詫間電波工業高等専門学校研究紀要』詫間電波工業高等専門学校や、玉本和史、宗澤良臣、大崎紘一、梶原康博、田口平八「伝統工芸品作家の技能の分析に関する研究」 (2018年10月2日最終閲覧)においては、神楽面を彫る職人の技術に関して、工学的な研究成果が報告されている。

 2節 芸北神楽の研究史

芸北神楽とは、旧安芸郡(広島県西部)にある神楽のうち、太田川江の川流域の芸北地方で行われている神楽を指す。大別すれば、「高田神楽」、「山形神楽」、「新作高田舞」の3種類である(三村,2013:34-35)。芸北神楽の伝播経路に関しては、①島根県邑智邑南町阿須那から広島県安芸高田市高宮町川根への経路、②邑智郡邑南町矢上から広島県山県郡北広島大朝への経路、③島根県浜田市金城町波佐から山形郡北広島町雄鹿原への経路である(藤原)。

広島県の神楽は芸北神楽,安芸十二神祇,比婆荒神神楽,備後神楽の4つの形態に大別することができる。県内の神楽団のうち,その約半数が芸北地方に存在し,なおかつブームといわれるほど盛況期にあることから,全国的には広島県の神楽といえば芸北神楽のことだと思われる場合が多い。最近では広島県の新しい観光キャンペーンの目玉としてもてはやされ,総称して「広島神楽」とも呼ばれはじめている。芸北地方に伝わる神楽は,隣接する島根県石見地方の石見神楽がルーツと言われている。石見神楽の原型は平安末期からの田楽と神事神楽との融合によって生れ、その後出雲の佐陀神能の影響を受けて、室町時代に今日の石見神楽はできあがってきたといわれている。

芸北神楽の研究史に関するアプローチを大別すれば、2つのアプローチに分けられる。1つには、芸能史的な研究である。三村泰臣、2010『中国地方民間神楽祭祀の研究』岩田書院において、芸北神楽の伝播経路に関して述べられた研究がある。また、藤原宏夫、2009「芸北神楽高田舞考」『中国地方各地の神楽比較研究』島根県教育庁文化センターにおいては、安芸の神職集団が石見神楽を学び、安芸に伝承したことが述べられている。2つ目は、社会学的な研究である。川野裕一郎「次世代への神楽の伝承 : 備中子ども神楽と芸北神楽高校神楽部の事例から」(2018年10月1日最終閲覧)、ひろぎん経済研究所、2012「地域おこし最前線(第7回)芸北神楽による地域おこし」ひろぎん経済研究所『カレントひろしまひろぎん経済研究所ひろぎん経済研究所、2012「県内経済トピックス 芸北神楽と地域振興」ひろぎん経済研究所『カレントひろしまひろぎん経済研究所等がある。

 

2章 備中神楽と芸北神楽・記紀神話の相違点

1節 備中神楽と芸北神楽の相違点

本章では、備中神楽と比較してより古い形態の芸北神楽と、国橋による改変の手が加わった備中神楽を比較することで、備中神楽の変化の過程を明らかにしたい。以下、芸北神楽と備中神楽を演目・使用装置等の要素に分け、比較した表を示す。

 

表1 芸北神楽と備中神楽の比較

 

芸北神楽(主に高田神楽)

備中神楽

神事

神迎え・白蓋神事

榊舞・白蓋神事

特有の演目

頼政鵺退治・山姥・伊吹山・紅葉狩・葛飾山・走り水・羅生門・相馬城・大江山・塵倫・滝夜叉姫・悪狐伝

 

岩戸開き・大蛇・国譲り・猿田彦の導きの舞・猿田彦

八重垣

大蛇の尾から剣が出てくる(=古事記)

その場面はない

藁蛇

参考文献に記載なし

→1、芸北の人が石見神楽を習った江戸時代の終わりころは、すでに、国学に基づく神道精神が安芸国には強く浸透しており、藁蛇を神とする神事はすでにそぐわず、受け入れることができ納かったのであろう。

2、藁蛇神事は神職の方によって行われる神事である。芸北の人が神楽を習ったのは、明治の中頃からで石見の舞人さんから安芸の舞人さんへという形で習われたので、神職さんは抜きになっている肝心の藁蛇神事は当然抜きなってしまう。

3、江戸の後期、特に芸北地帯は真宗が盛んで、舞人は氏子であると同時に熱心な真宗の信徒でもあった。特定の藁蛇を神とする神事は、心の中で忌避したのではないか。 

(今田,2004)

図1 藁蛇(三村,2010)

天蓋

採りもの

御幣・扇子

図2 芸北神楽面(面処 前河屋)

図3 備中神楽面(岡山県立博物館)

図4 備中神楽面の裏面(岡山県立博物館)

図5 備中神楽面の製作過程(岡山県立博物館)

図6 備中神楽面の製作図面(岡山県立博物館)

衣装

図7 芸北神楽の衣装(藤原オートサービス・スバルショップ芸北)

図8 備中神楽の衣装(岡山県立博物館)

リズム

六調子、八調子、十調子も(三村、2004)

新作高田舞…拍子は素早い動きを感じる力強さがある

神楽を舞うには、幼いころから習う必要があるとしばしば言われる

→地方特有のもの

(ゆったり、明るいというイメージ)

祭場

(現在はホール等も)

神殿(現在は他の祭場も→別紙参照)

死の場面

ヤマトタケルが逝去

八俣大蛇のみ死亡

神話関係

伊吹山・八俣大蛇

岩戸・大蛇・国譲・導き・猿田彦

口調

古語

古語・岡山弁

(語りものが多い)

信仰・思想

五行・神道・仏教

荒神・五行・神道

成立

石見から伝来、古典と関係

国学者が整備、神話

神楽団

比較的若い、ジュニアも

比較的年配者、ジュニアも存在

神事に関して言えば、芸北神楽においては神迎えであるのに対し、備中神楽においては榊舞である点である。

 神迎え 陰陽五行思想に基づき、東西南北に舞子を配して舞う四座神楽の代表的なものである。神楽殿天神地祇八百万の神の降臨を願い、神遊びの庭としようとする舞である(三矢の里神楽大会実行委員会)。四人の王子が「東西南北」のうちどの方角の何者か、と名乗りながら輪になって舞う。天井には四色の切り紙が飾られ、この配色も五行思想に基づくものと考えられる。

 榊舞

 以下に、芸北神楽の演目と備中神楽の演目を示す。

 頼政[1] 退治平安時代末期、武家の棟梁である清和源氏[2]嫡流である源頼政[3]より、傍流の源頼信の子孫たちへと時代は流れ、平治の乱において平家のものとなっていた。そのことを悲しみ、伊予の国で隠棲の身となっていた頼政の母、八重桐は常に我が息子、頼政の武勲を祈り、山中、赤蔵ヶ池へと通った。その池には、化生のものが住まい、八重桐は頼政の武勲を挙げることが出来るなら、自らが鵺となり、命を捧げることを誓う。自らが鵺となった八重桐は頼政に立ち会いの末、わが身をフタツノの梶矢で討ち取らせる。その鵺こそが母であったことに気付いた頼政は、母の深き愛を思い、再び源氏の白旗を挙げることを誓う(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 山姥 源頼光[4]が東国の賊従平安のため渡辺綱を供に連れ信州明山に差し掛かる。明山には以前北面の武士[5]の妻でありながら夫に死別して都を追われた女性が住み、世を呪い人を恨み一子怪童丸とともに山賊に成り下がっていた。この山姥が頼光を狙ったが、頼光の武勇の前に屈し、せめてもと怪童丸の助命を願う。頼光は母の情に感じ、山姥を許し、怪童丸を家来にする。これが後の四天王の一人、坂田金時である(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 伊吹山 日本武尊は幼名を小碓命といい、戦いの始め九州熊襲武を討ち、西国を従え、休む間もなく東国で戦い、やがて最後の戦いの場、伊吹山へと舞台を進める。しかし霊力をもつ草薙の剣はなく、猛毒を吹きかける邪神によって毒に犯されながらも、激戦の末にこれを討ち取る。生涯の使命を果たし、大和への道のりを辿り始めるも既に遅く、武尊は鬼神の毒牙によりその生涯に幕を閉じる(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 葛城山 大和の国、葛城山に年古く住む土蜘蛛の精魂は、病に伏した源頼光を取って食おうと侍女の胡蝶に化身し、典薬の守より名薬と偽り、毒薬を頼光に飲ませ、一思いに取って食おうとするも、源家の宝刀「膝丸」を一太刀浴びせられ、葛城山へと飛び去る。頼光はこの宝刀を「蜘蛛切丸」と改め、四天王に授け、土蜘蛛の精魂を退治するように命じる。四天王卜部季武坂田金時は、葛城山に向かい、土蜘蛛の妖術に悩まされながらも、激闘の末、土蜘蛛を退治するという物語である(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 走り水 日本武尊は、相模国を平定して更に東の国へと進む。そして、走り水(東京湾の入り口)から上総(かずさ・房総半島・千葉県)へ船で向かった。船が都を離れると波は次第に荒くなり、走り水の名の通り、潮は南北に激しく走るように流れる。これまでの戦いに討ち果たした者たちの怨霊がこの波(浦賀水道)の海底に集い日本武尊を荒海へと引きずり込もうと襲い掛かるかのようである。底津王と霊快士という恐ろしい海の鬼神は、日本武尊第一の宝物を犠牲に差し出させようとしたのである。これを感じた弟橘姫は、武尊の今後の活躍を祈り、自ら荒れ狂う海に身を投げた。一瞬に海は青く静かになり、武尊は無事に上総の地を踏み、東の国へと向かう(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 羅生門 平安の中期、京は不安な世情が続き、羅生門辺りには夜な夜な鬼が出没して領民を苦しめているという噂があった。そこで源頼光は四天王の一人渡辺綱に妖鬼を鎮圧するよう命ずる。渡辺綱羅生門に赴き、家路に帰る途中の女性と出会う。その女性に照らす月の光からの影には恐ろしい鬼の姿が映し出され、その正体を見破る。その鬼こそ大江山に住む茨木童子であり、格闘の末片腕を切り落とす。哀れと思った大江山の首領酒呑童子渡辺綱の乳母白妙に化けて腕を取り返そうとする。白妙は言葉巧みに渡辺綱の館に入り込み首尾よく切り取られた左腕を取り返す。渡辺綱源頼光の助けを得て激闘するが、虚空飛天の妖術をもって酒呑童子大江山に飛び去って行く(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 相馬城 天慶3(940)年自ら「新皇」と称して関東一円を治めていた平将門が討たれた。その首はさらされたが、毎夜「体を返せ」と大声を発していた。そこに二人の人物、将門の子皐月と良門が現れる。彼らは父に復讐を誓い、妖術を得て滅んだ一族の屍を操り、皐月は「瀧夜叉」、良門は「酒呑童子」と名乗り、いよいよ朝敵となった。これを討伐しようと、源頼信陰陽師大宅太郎光圀は都を発つ。そして物語は相馬城を舞台に佳境を迎える。瀧夜叉征伐と大江山酒呑童子の過去を題材とした大都神楽団の創作演目である(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 大江山 一条天皇の御代、丹波の国は大江山酒呑童子という鬼人が立てこもり、多数の手下を従えて都に現れては人々を悩ませていた。そこで帝より大江山の鬼人征伐の勅命を受けた源頼光は、四天王を引き連れて大江山に向かう。山伏修験者に身を変えた一行は、大江山の山中で、血に染まった衣を洗う一人の娘と出会う。頼光はこの娘も酒呑童子によって都から連れ去られた一人と知り、童子の岩屋への道案内を頼む。頼光の一行は童子の岩屋へ案内され、道に迷ったので是非とも一夜の宿をお願いしたいと申し出る。これを怪しむ酒呑童子との問答の末、ようやく宿を許された一行は、都から携えた酒を酒呑童子に振る舞う。酔い伏して眠った酒呑童子の油断に乗じて切りかかった一行は、激しい合戦の末、見事に討ち取る(三矢の里神楽大会実行委員会)。

 塵倫 この国に悪災を与える「塵倫」という鬼は、背中に翼を持ち、天空を自由自在に駆け巡ることができた。しかも、神通力を駆使し、戦術にも長けたこの鬼は数万騎の軍勢を従え、庶民を大いに苦しめた。そこで、時の帝、仲哀天皇は、不思議な霊力を発揮するという弓矢を武器に、この恐るべき敵に戦いを挑んで見事撃退するという物語である(ひろたび)。

滝夜叉姫 平安末期、下総(しもうさ)の国で朝命に逆らい、自ら親王(しんのう)と名乗っていた平将門は、朝廷の命を請けた、いとこの平貞盛藤原秀郷(ふじわらのひでさと)(俵藤太)のためにあえなき最期を遂げてしまう(天慶の乱)。父の意志を継ぎ恨みを晴らそうとした娘の五月姫は、京都の鞍馬にある貴船神社に祈願し妖術を授かる。自らを滝夜叉姫と名乗り、下総の相馬の城に帰り、多くの手下を集め朝命に背き天下に災いをなす。そこで朝廷の命を請けた大宅中将光圀(おおやのちゅうじょうみつくに)が陰陽の霊術をもってめでたく成敗するという物語である(ひろたび)。

悪狐伝 中国や、インドで悪行(あくぎょう)を重ねた金毛九尾(きんもうきゅうび)の狐が日本に渡り来て、美女に姿を変え、玉藻前(たまものまえ)と名乗り、鳥羽(とば)の院(い)に仕え、一身(いっしん)に寵愛(ちょうあい)を受けていた。しかし、陰陽師阿倍清明播磨守泰親(おんようしあべのせいめいはりまのかみやすちか)により正体(しょうたい)を暴かれてしまう。泰親(やすちか)の祈祷(きとう)により苦しくなり空を駆)けて、ここ下野国那須野原(しもつけのくになすのがはら)に逃れ、隠れ住んでおりました。そこで関白直実(かんぱくなおざね)の勅命により、上総(かずさ)の住人上総之介(じゅうにんかずさのすけ)、下総(しもうさ)の住人三浦之介(じゅうにんみうらのすけ)の弓引(ゆみひき)きの名人(めいじん)が悪狐退治(あっこたいじ)に那須野原(なすのがはら)に駆けつけて、格闘の末これを退治する。この神楽は途中で、珍斉(ちんさい)という道化役(どうけやく)が出てきます、珍斉(ちんさい)を食べてしまおうと訪ねてきた玉藻前(たまものまえ)と面白おかしく問答(もんどう)を繰り広げる(高井神楽団)。

 

現代では神楽道具も通信販売が存在する。異なる地方で同じものが使用される可能性もあるのではなかろうか。商品情報ではどの地方の神楽で用いるものかという記載はない。

以下、備中神楽の演目に関して示す。

指さしの舞 神楽の役割分担を知らせる舞である。鈴と差紙を持って一人で舞うものである。榊舞では、一切の人・場を清める。はじめは鈴と扇子で神歌(四季の歌)を唱え、次に榊を手にとって神歌を歌う。榊は今でも神聖な木であり、この舞では葉を千切って、四方にまきながら清める。太夫が一葉口にくわえているが、最後には二つに千切って投げる。

茣蓙の舞 新しい茣蓙を敷いて、神々を迎える舞である。神楽では、注連と茣蓙をもって神殿に見立てる。茣蓙は、場の設定でも最も神聖なものである。「茣蓙飛び」と呼ばれるものがあり、茣蓙の端をもって、両足の下を縄跳びのようにくぐらせるものである。熟練すると200回以上飛ぶこともあるそうである。

白蓋神事(動座・鎮座) 八百万の神々を勧請、鎮座を願う。

猿田彦の導びきの舞 神話「天孫降臨」のとき、その導きをしたと伝えられる猿田彦の由来を説明するものである。「曲舞」をしながら、以下のように歌う。

神歌「猿田彦、もろ神たちの先払い、うれしく召され天地の神」

「さって猿田彦大神の由来根源、あらあらしく尋ね奉れば、なかなかご大徳の神にましませば、詳しきことは略して申さん。(中略)この神の姿をみれば、鼻の長さは七はたあまり、正に、七尋とも言うべし、又、口かくれ、明かり照り眼は八呪の鏡の如く照りかがやくこと赤がわちに似たり。(中略)それなる神は如何なる神にてましますか。翁答えて曰く吾れは太田猿田彦大神なり。(中略)」

猿田彦 白装束に赤よろい、白しやぐま、赤く高い鼻、照り輝く眼に荒々しく勇敢な舞が舞われる。はじめに、両手の扇子できらびやかな舞を舞い、後半、剣をもって、千道という切紙を悪魔に見立てて切り払う。厄払いの神、新築祝い等でも単独で舞われる。

こけら払い 新築落成を祝う幸運の神の舞猿田彦の舞であるが、普通の神楽では省略される。

国譲り 神々が勅使として葦原の中津国に天降る舞である。

八重垣の能 大蛇退治とも呼ばれる舞である。スサナオのミコトは天高原を追放され、出雲に落ちる際、簸の川の上流で足名槌、手名槌、両翁媼の娘、奇稲田姫を助けて妻とし、その仇、八岐の大蛇を退治する物語だそうである(逸見・竹本)。

 以上の舞のうち古事記を元にしているものは、猿田彦の導きの舞、大蛇退治、岩戸開きの舞、国譲り、大蛇退治である。

 藁蛇に関して言えば、芸北神楽の藁蛇に関する状況は複雑である。以下、今田による見解を示す。

1、芸北の人が石見神楽を習った江戸時代の終わりころは、すでに、国学に基づく神道精神が安芸国には強く浸透しており、藁蛇を神とする神事はすでにそぐわず、受け入れることができ納かったのであろう。

2、藁蛇神事は神職の方によって行われる神事である。芸北の人が神楽を習ったのは、明治の中頃からで石見の舞人さんから安芸の舞人さんへという形で習われたので、神職さんは抜きになっている肝心の藁蛇神事は当然抜きなってしまう。

3、江戸の後期、特に芸北地帯は真宗が盛んで、舞人は氏子であると同時に熱心な真宗の信徒でもあった。特定の藁蛇を神とする神事は、心の中で忌避したのではないか

(今田,2004)。

 以下、中国地方各地における藁蛇の取扱いに関する表を示す。

表3 中国地方各地における藁蛇の取扱い

地方

神道

藁蛇の使用

呼称

特徴

備中

薄い

あり

 

 

芸北

薄い

あり

 

 

備後

薄い

あり

-

 

出雲

色濃い

なし

-

 

周防

色濃い

なし

巻縄(マキナワ)

綱(ツナ)は、以前は藁蛇であったと考えられる。

大元

薄い

あり

 

備後と類似だが、上下の顎が小判型。

神道色が強い地域では、藁蛇が失われていることがわかる。

一方、備中神楽においては藁蛇が綱舞において使用されることがある。備中神楽において、綱舞が舞われているのは、以下の地域である。

図1 神楽道具の通信販売(出典:「神楽ショップ くわの木」)

 天蓋に関して言えば、芸北神楽においては…

 採り物に関して言えば、芸北神楽においては…

 舞い手が身に付ける面に関しては、どのような相違点があるのであろうか。

 神楽の拍子(リズム)に関しては、芸北神楽、備中神楽とも特有のものである。芸北神楽の拍子は、六調子八調子、近年では十調子の非常に速い拍子もある(三村)。以下、芸北神楽の舞に使用されている譜面を示す。

 

 

 一方、備中神楽においては、ゆったりとした拍子で舞われる。

 祭場に関して言えば、芸北神楽は…で舞われているのに対して、備中神楽においては神殿(こうどの)で舞われている。備中神楽が神殿神楽とも呼ばれる所以である。

 口調に関して言えば、芸北神楽においては古語を用いて語られることが多いのに対して、備中神楽においては、古語に加えて岡山弁も用いられる。例えば…。これは、備中神楽においては語り物としての演目が多いことに起因している。

信仰・思想に関して言えば、芸北神楽に関しては…。

神楽の成立に関して言えば、芸北神楽に関しては…。

神楽団に関しては、芸北神楽に関しては…。

2節 備中神楽と記紀神話の相違点

表2  古事記と備中神楽の演目における相違点

 

古事記

備中神楽

岩戸開き

-

-

大蛇退治

大蛇から剣が出現

マツノオ(酒作り)

国譲り

-

-

天孫降臨

瓊瓊杵尊の統治拠点

猿田彦の由来を説明

猿田彦

猿田彦が溺れ死ぬ

生きている

古事記の流れと備中神楽の演目の順番は異なっている。古事記の順で言えば岩戸開き、八岐大蛇退治、国譲り、天孫降臨、天宇受売命と猿田彦命である。一方備中神楽では、猿田彦の導きの舞、猿田彦舞、岩戸開きの舞、国譲り、八岐大蛇退治という順序で進む。古事記と備中神楽の演目における相違点に関して、岩戸開きでは、備中神楽と古事記の内容に関して、大きな差は見られなかった。大蛇退治では、備中神楽において松尾明神が酒作りの神として登場するが、古事記には登場しないという点で相違がある。

国譲りでは、大きな差は見られなかった。「猿田彦導きの舞」では、猿田彦の由来を説明するにとどまるが、天孫降臨においては瓊瓊杵命が統治拠点を見出すといった記述がある。

猿田彦舞では、古事記においては猿田彦が海で溺れ死ぬ逸話が出てくるが、備中神楽には出てこない。

[備中神楽]

① 素戔嗚尊が出雲 の川上にやってくる。このとき、「さて舞いだすそれがしは…」と一人称の語り

② 手名槌、足名槌に多くの娘たちを大蛇に人身に捧げ、最後に残った奇稲田姫も差し出さなければならないいきさつを聞き、姫を貰い受けることと引き換えに援助することを約束

③ 素戔嗚と奇稲田姫の契りの舞。この際「八雲立つ 出雲八重垣 夫婦隠みに 八重垣つくる その八重垣を」(八雲の神詠)

④ マツノオの酒作り

⑤ 大蛇が酔ったところに素戔嗚が登場、討ち取って嬉しき舞

素戔嗚尊の一人称の語りでは、八岐大蛇を素戔嗚が宝剣を得てうれしき舞でその霊験が強調される。岩田勝によれば、改変後の八重垣の原型が備後の「栃木家延宝年能本」に収録されている「やとが(谷戸)坂」にあるという。備中神楽の「八重垣」の冒頭が「さて舞いだすそれがし…」であるのに対し、「やとが坂」の冒頭は「抑々御前ニ罷立ル…」である。「やとが坂」と備中神楽を比較すると、共通点は、一人称の語りで自らの出自を説明していることから、類型上の類似性を指摘できる。日本記にはない松尾明神の酒つくり(「やとが坂」では「ソウジャノソンジン」)を共通して持っている。祇園社への鎮座を語る場面が、両者とも備後地方の「森本島本神楽能本」と著しく類似している。

相違点としては、「やとが坂」では「八雲の神詠」は詠まれず、存在はしているが大蛇退治の罠の説明に流用されるのみで重視されない。「やとが坂」では、素戔嗚命が剣を得る設定は存在せず、悪魔の化身(=大蛇)を攘却することに重点が置かれる。鈴木正崇によれば、荒神は人々に恵みをもたらす一方、破壊・天災をもたらしかねない神という点で両義的であるという。荒神は祭祀を約束通り行えば人々の願いをかなえる守護神となり、怠ると祟るアラカミとなる(鈴木)。「負」の部分が八重垣、「やとが坂」の大蛇であるとされる。

  • 荒神を招聘[6]し、攘[7]却するというプロットは温存

(=荒神の負の部分の象徴である大蛇を招き、素戔嗚が退治する)

  • 改変の中心は「八雲の神詠」と剣を得る場面

 

古事記日本書紀

備中神楽

大蛇退治

大蛇から剣が出現

マツノオ(酒作り)

 

 

古事記日本書紀

備中神楽

やとが坂

一人称の語り

-

酒作り

×

○マツノオ

○ソウジャノソンジン

影響

-

「森本島本神楽能本」

「森本島本神楽能本」

八雲の神詠

-

×

素戔嗚の剣

大蛇の中

酒作り後

酒作り後

六.異形の蛇体と「八重垣」

国橋以後は、大蛇を攘却する点、荒神を攘却し、攘却する点は温存されている。改変の中心は、「八雲の神詠」[8]と剣を得る場面である。国橋改変の特質は、武による「治天下」の正当性を端的に示した「徳川的神話空間」を反映したものであるという。

国橋の改変にはテキストがあった。マツノオ、ソウジャノソンジン[9]の酒作りは素戔嗚が登場して大蛇を退治し、嬉しき舞で締めくくることができるため温存し、剣で大蛇を討ち取る場面を強調したのではなかろうか。「やとが坂」の内容、「八雲の神詠」の意味が疑問である。

 

3節 考察

 古事記と備中神楽の演目の順序が異なっているのは、芸能的な演出の関係で順序を変えられた可能性もあるのではなかろうか。

 備中神楽を実際に鑑賞すると、時事・流行を取り入れ、芸能色も強いものであると感じた。また、よく声を出す印象を受けた。同じ演目でも、年によって内容が変わるものであろう。一方、芸北神楽を見ると、市役所と併設の音楽ホールでも開催され、地域・行政も後援する神楽が舞われている。年齢層が若いこともあってか、非常に歯切れの良い舞であった。また、昔からこの地方の神楽を知る者に言わせれば、かつてはこれほど衣装や舞が華々しいものではなかったそうである。

 英雄の死等、芸北神楽では死の場面が多いが、備中神楽において英雄が亡くなるような演目は存在しない。国学者の都合により整備され、または神道国家の政治権力とも関連しているのではなかろうか。

 高田神楽における神迎えは五行思想を反映したものであるが、榊舞は神道のものである。元来そうであるか、もしくは国教である神道に変えられた可能性もあるのではなかろうか。

 高田神楽において「山」という語が演目の名前の中にもしばしば登場することは、山中他界観と関連している可能性がある。現地の人が「あそこは山賊が出る」と自然に発することから、高田地方において「山」が意識されるものである可能性は否定できないであろう。また、「紅葉狩」における「紅葉」は、単に広島らしさがあるがためにしばしば演じられるのみである可能性もあるが、正に広島を連想させるものである。一方、備中神楽において、岡山の地方色を感じるのは岡山弁での語り口調にとどまる。整備される以前においては、岡山人の感性を表現するような演目は存在していたのであろうか。

 神楽団員に関しては、高田神楽では比較的若く、ジュニアの神楽団も存在していた。備中神楽では神楽の準備を行った者が観客として掛け声を出すなど盛り上げることが多かったが、高田神楽においては若い神楽団の友人と思しき観客が掛け声を出すなど、民俗芸能のように現代人からしてある種特別な芸能としてではなく、通常の芸能のような楽しみ方をすることがしばしばあるのではないかと感じた。

 演的な効果音や視覚的要素が存分に取り込まれた神楽は,演出家によって設定された時間内にそのエッセンスだけを短絡的に表現するものになり,従来の神楽とは全く趣の違うものとなった、と高崎は述べている。2018年3月に鑑賞した神楽は市役所と一体になったコンサートホールで開催されたものであり、地域・行政が後援するものであった。図1のようなパンフレットが配布され、図2のようなDVDがチケットの整理番号で当選する等、神楽を楽しみやすい工夫もなされていた。神楽の形態は、元来の姿と比較して変化していると感じる。

3節 考察

国橋の意図は、娯楽的要素を仕組んだことである。

 

3章 古態の神楽

1節 神代神楽以前の備中神楽の演目

国橋が関与した演目は「八重垣」「国譲り」「岩戸開き」である。

神代神楽以前の備中神楽の演目は、「茣蓙の舞」「玉藻の前の能」「筑波山(ちくばさん)の能」「弁慶の能」である(逸見・竹本)。

お多福 日向の高千穂の峰に天降った「瓊瓊杵の命」が吾田の笠沙の岬で美人の「このはなのさくや姫」に出会い求婚した。父の大山津見神は承諾し、姉の「いわなが姫」(お多福)も副えて命に送った。ところが祝言を終えたところへお多福が現れ、二人の間に入って、散々邪魔をする。邪魔者扱いされた「お多福」は怒って「般若」となってあばれるが、「猿田彦」によって退治される(備中神楽の勉強部屋)。

三韓 三韓」…姫姿の神功皇后が後住吉明神のお告げで「西に当たる宝の国を征夷に行く」旨を述べて、富岩窓、櫛岩窓、武内、物部の四名を呼んで軍略を問う。竜宮界から千珠万珠の玉を借りて、軍馬に皇后が乗り、馬方が歌いながら舞台を回る。やがて、異国の地に着く。千珠の玉は、武内に。万珠の玉は、物部に捧げた。「戦が激しくなる時には、海中に投げ入れて海を干し。海を煮立たせよ。」富岩窓、櫛岩窓の二人には、弓矢を授けて先陣を命じた。続いて、万里の長城を作ると言って、壁を塗っている処で、鬼を待ち伏せして首を取る。二人で担いで帰ろうとするとき、皇子誕生の声があり、二人の舞い上げで幕となる。観客をわかせる余興である(備中神楽の勉強部屋)。海外の地名が見られる。

玉藻の前 近衛天皇が病名不明の病気にかかり、臣下大臣治部(じぶ)の太夫が易の名家安部保(やす)親(ちか)に占いを頼んだところ、金毛九尾白面の老狐のわざわいであることが分かる。八(や)呪(た)の鏡の威力によって化けの皮をはがれた狐は、那須野が原へ逃げ、それを追って仁田四郎らが見事退治し、天皇の病気を治した、という物語である。

お田植  神崎佳馬と古川定一との作であり、比較的新しい作品である。全国的に分布する田楽、田遊びなどと同じで、農作の祝い行事の一つと考えられている。古い時代に行われていた仁和加狂言が吉備津能の代わりに舞われることがある

演目…(成羽町,1991) 内容…(「神楽のお話」出典:神崎『備中神楽』『備中神楽の研究』)

(成羽町,1991)

大山記 大山智明大権現が切り分け、幡分け[10]両明神に頼んで大山参拝道の道分け[11]をしてもらう。次いで、この曲目の主人公、備前児島の住人、下山源五郎(法印)が、19歳の厄難払いため、家来を連れて作州の久世から三坂峠を越え、御机(みつくえ)、釘(くぎ)貫(ぬき)から湯原を経て大山様に参る。ところが急に頭が痛んだり、金混杖が折れたり、不吉なことが次々と起こる。どうにか参拝を済ませて、賽(さい)の河原まで帰ったところで、紀州熊野の住人、鈴木三郎為義という武士に言いがかりをつけられて殺されてしまう。源五郎は亡霊となって現れるので、大山参詣人はなくなってしまう。そこで明智大権現は、おもんじ、おさいじの二神に亡霊の話を聞かせ、爾後、三国の禄を与え、下山権現として宮入りを許し、鈴木家の者の参詣を封じるという条件で満足させ、めでたく鎮座してもらう

→他の地域では記載が見当たらない。

→男性の厄年は25、41、61歳(「日本の行事」)

鞍馬山

(落合町,1980)

 国境たちがもたらしたもの(国境以前・以後の差異)以前は天明8(1788)年「八カ市三宝荒神御神楽祭」は、「大王」、「四神王子」、「中央」のみであるのに対して、以後安政4(1857)年 「山宝荒神略神楽帳」においては、「次大王」、「次中央」、「次神能」となっている。何れも内容は不明であるが、活動により内容が変化したといえる、と畑中は指摘している。

2節 古態の神楽

娯楽としての神楽の演目も存在する。政治的に問題のあるものもある。

 私たちの地域にある春や秋のお祭りは、遠い祖先である神様に、農作物の豊作や生命の安全などを祈り、感謝するものです。

 岡山県のほぼ西半分の地域は、備中神楽と呼ばれます。この地方の人々は、自分たちは荒神という神様の分身であると考えてきました。病気や災害から生命を守ることができるように、また、豊作になるようにと、7年、13年ごとにこれが備中神楽のもととなった、荒神神楽の始まりともいわれています。

 江戸時代、岡山県高梁市出身の神官が、日本書紀古事記の神話をもとにした演劇のような神楽を生み出し、荒神神楽に加えました。これが備中神楽のもとになったといわれています(岡山県立博物館)。

 

3節 考察

神楽師の方によると、「健全な農村神楽を育てようとした」ということである。(考察は削除の可能性あり)

4章 備中神楽の整備過程

第1節 神職者・西林国橋に関して

国橋の略歴は「西林国橋先生碑文」において記載がある。家庭事情、師は本田青田斉、漠然とした思想背景は垂加神道であることなどが記載されている(畑中,2003)。高梁市落合町福地(しろち)出身、明和元(1746)年生まれの西林国橋は文化文政期(1804-30)年に「神代神楽」を取り入れた。本田青成斉について神道垂加流の国学を学び、京都で国学を深めたとされる(畑中)。成羽町上日名の神職藤井家に嗣子がなかったため入り、このとき「神代神楽」3編を創案、弟子に実演させ広めた人物である(山根,2002:28-30)

図1高梁市落合町福地(しろち) (「Yahoo!地図」)

 

以下に、碑文の内容を示す。

「西林国橋先生碑文」

先生諱(いみな)[12]盛堯称織衣西林氏國橋其號(ごう)[13]備中川上郡福知

村人家世職神其考諱(いみな)忠盈(みつる)妣藤井氏兄曰忠奕[14]忠奕有子晩生(ばんせい)[15]故似先生承家其後舅[16]

藤井家貴没而無嗣先生乃使其子家質往為之後己以其兄子盛箕

為嗣移学於藤井氏以監両家之政為家質

幼故也先生少善楷書受本

教於本田青斎從遊

有年遂以窮其蕃文藻外發禮容有節為人慷慨懇

懇善誘文政戊子[17]三月八日病亡年六十一

藤井氏葬之干其先域門人

相議属予作銘辭以図其不朽予不敏辞而不許乃為之銘銘曰

峩兮 其山 其人端良 租兮其谷 雅量維章 文辭外號 真和内号

文政十三年[18]次庚寅三月 檀園[19]源綱[20]撰并書

(出典:備中神楽の勉強部屋) ←成羽町史に該当箇所なし?

 

1西林国橋先生墓碑文(出典:「西林国橋先生墓碑文」)

 

図2 西林国橋先生顕彰碑       図3 備中神楽神代神楽碑

(出典:「西林国橋」)              (出典:『備中神楽』) 

 

2節 神職集団による神楽変革

畑中によれば、備中神楽変革は国境の仕事としばしば言われるが、国橋を中心とする集団の仕事であるという。備中神楽変革は国境中心と言われる当時の備中地方での神職組織は、近世の吉田家の神道裁許状による組織、祭儀の際の神職間協力関係の2つに分けられる。高田能登訴証口上覚書」においては、神楽の際の「社家中」(支援)と「組合」(神職の神楽運営)と呼ばれ、神職間の制度、活動の面での連携が国境中心の神楽変革の広がりの素地であるという(畑中)。すなわち、「社家中」や「組合」のような神職者組織体系が、国橋らが活動した備中地方においても機能していたとされるのである。国橋ら神職者は、いかにして備中神楽を変革したのであろうか。ここで、国橋らが備中神楽を改変した意図と、神職者と神道を取り巻く歴史的背景という観点から、神楽変革に関して検討したい。

山本によれば、前述のように、国橋らが備中神楽を整備した意図は、娯楽的要素を仕組んだというものであった。しかし、国橋の意図は、娯楽的要素を仕組んだにとどまらない「宗教の教化」であるという(坪井)。

当時の神道者に関する歴史的背景から考察すれば…(島薗,2010)

 

3節 考察

国橋が中心となって、備中神楽を変革した。(考察は削除の可能性あり)

 

おわりに 結論と今後の課題

 1節 結論

 

 2節 今後の課題

 

付録 現代の備中神楽

神楽が舞われる祭り…①氏神例大祭(秋、毎年一回) ②荒神式年祭(七年、十三年に一度)。

(中世夢が原)

祭りの組織 主に初冬に、荒神神楽を行うか相談、行うなら日取りと当番を決定する。なお、当番はくじ・立候補によって決定される。

(例)大当番・相当番・三当番・斉燈係[21]・楽屋係[22]・会計係

前準備 斉(さい)燈(とう)木出し・当番清め・神殿掛けが行われる。

当番行事 当番祭・神殿移りにおいては、太鼓・大麻・真(ま)榊(さかき)・神籬(ひもろぎ)・神体幣・神札・五色幡・神饌(しんせん)・採りものが使用される。

神殿神事(前段)…修祓・役指し・榊舞・白蓋神事・太(ふと)祝詞(のりと)[23]・奉幣(ほうへい)行事[24]・玉串(たまぐし)奉奠(ほうてん)・頂盃[25]が使用される。

神楽 導き・猿田彦・神代神楽(天の岩戸開き・国譲り・大蛇(おろち)退治)・五行神楽が舞われる。

神殿神事(後段) 託宣神事・石割神事[26]・総神楽が舞われる。

荒神送り 荒ぶる神格が出ないよう封じ込める。

当番開き 荒神送りと同時に片づける。

神楽の基本形(田辺豊市・岡本利一) 神楽太夫・神楽社

 桐の木を手掘りする(田辺・岡本)。

面を彫る手順 厚紙で左右対称に型紙を作り、木材に写し、精密に彫る。数種類のペーパーサンドで鑢がけし、漆で着色する。必要に応じて髭を付ける。素材は天然のものである。

衣装 千早(ちばや)・狩衣・陣羽織・鎧・袴が使用される。

採りもの 御幣・扇子が使用される。

舞の基本形 千早じた・曲舞・地(ぢ)舞(まい)・鎧下(よろいじた)・荒舞・嬉しき舞である。

歌と言葉 言いたて・名乗り・言葉・歌ぐらが用いられる。

指さし舞 神楽執行に関しての配役を指示する舞である。

榊舞 一切の人・場を清める舞である。

白蓋神事(動座・鎮座) 八百万(やおよろず)の神々を勧請、鎮座を願う

導き舞 猿田彦(さるだひこ)の命(みこと)の由来を説明

猿田彦 腰に刀を差し、両手に扇子を持って、軽快に舞う

神能

岩戸開き 諸神が次々に登場する。

国譲り 神々が勅使として葦原の中津国に天(あま)降(くだ)る舞である。

大蛇(おろち)退治 素戔鳴(すさなお)の命の舞から始まる

吉備津 吉備津の命の由来について表わすものである。

五行幡割り 四人の王子がそれぞれに名乗りを挙げる。

  • 語りが多い下り等は、子供が飽きないよう宮神楽ではお菓子を投げるなど退屈しないような工夫がある

→娯楽が少なかった時代は、子供も神楽をしばしば見に行った。

剣舞 神楽の舞い納めの一つである。

布舞 神殿上の最終神事、託宣を伴う

神楽は秋に舞われることが多い。地域内での一連の前準備・舞・後処理等が行われ、外部者が見に行こうとするには「酒の一升でも」と祖父に言われた。神楽は本来神聖な神々のものである。

 

1.概要

日時は、2017年12月16日18時30-24時(日取りは神楽社の都合で妙見様の祭より一週間遅れ)場所は、妙見神社(備中高梁駅から車で10分強、徒歩数分程度)高梁市成羽町下原402

神楽社は神光社である。準備は、町内会・大当番が行ったようであった。気温は0℃を示しており、大変寒い。松明とストーブが焚かれていた。

酒は、祖母が代行(清酒 岩本梨沙)

神殿は、太夫が褒めるほど立派、四隅に色紙(五行思想?)、下手に神棚

氏子層は若い人、年配の人、子供(餅が欲しいからか大きな袋を持参)

取得物は餅(農業と関連?)

 2.神事と舞

①指さしの舞(神事)②榊舞(神事)

清めと神の勧請が合わさって、白蓋神事は行われなかったのであろうか。

猿田彦の導きの舞④猿田彦

千道の和紙が落ちる程激しく勇ましいものである。

岩戸開きの舞 知恵の神である思兼命が「沈思黙考」し、ウズメの色仕掛けを思いつく。ウズメが舞い、色仕掛けを行う。強力を持つ神である手力命が岩戸を開く。

国譲り 岩戸両神(勅使)、鯛釣りが舞われる。

大蛇退治 藁蛇でなくチューブ状の大蛇を使用する。酒作りでは奇毒酒という大蛇を酔わせるための酒が作られる。「蛇が飲む酒に土混ぜた」「ええが人間じゃねんじゃけえ」という神々のやりとりによって、大蛇の惨い扱いをユーモラスに表現されていた。大蛇が酒に酔い、首を切られる。五穀豊穣・家内安全を祈る言葉で締めくくられた。

 

3.まとめ・考察

  • 時事ネタを取り入れ、芸能色も強めである。同じ演目でも、年によって内容が変わる。
  • よく声を出す印象を受けた。

 4.今後の研究

  • 神話と神楽の関係

古事記日本書紀

  • 整備されていない神楽を見に行く

参考文献 逸見芳春・竹本健司、1983『備中神楽』新見市昭和町商店会

参考サイト「岡山県内神社巡り(メイン)」

http://nonmasashi.blog.jp/archives/1052872271.html

 

 

 

芸北神楽(主に高田地方の神楽)

備中神楽

神事

神迎え・白蓋神事

榊舞・白蓋神事

演目

頼政鵺退治・山姥・伊吹山・紅葉狩・葛飾山・走り水・羅生門・相馬城・大江山・塵倫・滝夜叉姫・悪狐伝

 

岩戸開き・大蛇・国譲り・猿田彦の導きの舞・猿田彦

死の場面

ヤマトタケルが逝去

八俣大蛇のみ死亡

神話関係

伊吹山・八俣大蛇

岩戸・大蛇・国譲・導き・猿田彦

口調

古語

古語・岡山弁

信仰・思想

五行・神道・仏教

荒神・五行・神道

成立

古典と関係

国学者が整備・神話

神楽団

比較的若く、ジュニアも

比較的年配者

 

参考文献

今田三哲、2004「藁蛇神事は、なぜ伝わらなかったのか」いちもん編集委員会編、『いちもん第57号』いちもん編集委員会

逸見芳春・竹本健司、1983『備中神楽』新見市昭和町商店会

梅原猛、2016『古事記 増補新版』学研プラス

落合町史編纂委員会 編、1980『落合町史』落合町

神崎宣武1984『備中神楽の研究―歌と語りから―』岡山県美星町教育委員会

島薗 進、2010『国家神道と日本人』岩波新書

坪井有希、2011『「備中神楽」衣装の色彩』吉備人出版

蓮田善明、2013『現代語訳古事記岩波書店

畑中良介、2003「神話の土着―西林国橋の神楽変革を中心に―」法蔵館

俵木悟「民俗芸能の実践と文化財保護政策--備中神楽の事例から」

俵木悟「『正しい神楽』を求めて : 備中神楽の内省的な伝承活動に関する考察 (松崎憲三教授退任記念)」(2018年10月1日最終閲覧)

藤原宏夫、2009「芸北神楽高田舞考」『中国地方各地の神楽比較研究』島根県教育庁文化センター

ひろぎん経済研究所、2012「地域おこし最前線(第7回)芸北神楽による地域おこし」ひろぎん経済研究所『カレントひろしまひろぎん経済研究所

ひろぎん経済研究所、2012「県内経済トピックス 芸北神楽と地域振興」ひろぎん経済研究所『カレントひろしまひろぎん経済研究所

成羽町編集委員会 編、1991『成羽町史』成羽町

三村泰臣、2013『中国・四国地方の神楽探訪』南々社

三村泰臣、2010『中国地方民間神楽祭祀の研究』岩田書院

山根堅一、2002『備中神楽』日本文教出版

参考サイト 

「神楽ショップ くわの木」http://www.kagura-shop.com/product/(2018年10月24日最終閲覧)

川野裕一郎「次世代への神楽の伝承 : 備中子ども神楽と芸北神楽高校神楽部の事 例から」

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN0006957X-00000075-0049

(2018年10月1日最終閲覧)

「高井神楽団」http://www.takaikagura.sakura.ne.jp/en_akko.html

(2018年11月19日最終閲覧)

玉本和史、宗澤良臣、大崎紘一、梶原康博、田口平八「伝統工芸品作家の技能の分析に関する研究」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmecs/2002.40/0/2002.40_5/_article/-char/ja/

(2018年10月2日最終閲覧)

徳永修一・大崎紘一・玉本和史、2002「備中神楽面の表面の木目に関する研究」詫間電波工業高等専門

学校編『詫間電波工業高等専門学校研究紀要』詫間電波工業高等専門学校

ひろたび」https://www.hiroshima-navi.or.jp/special/kagura/program/jinrin.html

(2018年11月19日最終閲覧)

「藤原オートサービス・スバルショップ芸北」http://fas-fujihara.com/hp/?p=2710

(2018年10月23日最終閲覧)

「面処 前河屋」https://maekawaya.com/

(2018年10月23日最終閲覧)

山本又三「備中神楽と記紀-神体神楽その一『天岩戸開き』」http://repository.tsuyama-ct.ac.jp/metadata/359 

(2018年10月1日最終閲覧)

山本又三「備中神楽と記紀-神体神楽その二『大蛇退治』(八重垣の舞)」http://repository.tsuyama-ct.ac.jp/metadata/342

(2018年10月1日最終閲覧)

山本又三「備中神楽と記紀-神体神楽その三『国譲り』」http://repository.tsuyama-ct.ac.jp/metadata/327

(2018年10月1日最終閲覧)

 

謝辞 

 最後になりましたが、本論文を作成するにあたり、貴重なお話をお聞かせいただいた〇〇氏、祖父母、家族をはじめ、協力していただいた皆様に心より御礼申し上げます。研究は1人ではできません。また研究テーマ選択においても、自分の興味関心はこの岡山という地域だからこそという部分も多分にあるのです。

 私は幼いころ、祖父母の住む高梁市川上町において、宮神楽を鑑賞しました。また、元中学校の技術教師であった祖父の掘る備中神楽面をよく眺めていて、祖父からよく「あの面はスサノオだ」などと説明されたものです。あの頃の漠然とした神楽への関心を、こうして論文として形に出来たことを嬉しく思います。

 

 1)頭が猿、胴体が虎、尾が蛇のようである(怪異・妖怪データベース)。

 2)清和天皇の賜姓皇子の子孫(赤尾,2000:338)。

 3) 平安末期の武将・歌人(赤尾,2000:578)。

 4)満仲の長男。摂津守など受領を歴任。藤原道長に仕え、土御門殿の新築に際し、家具・調度を多数献上した。武名高く、大江山酒呑童子退治伝説もある(赤尾,2000:578)。

 5)1905年、白河上皇院政時代に設置された院司。院御所の北面で警護に当たった。この設置が武士の中央進出の契機となった(赤尾,2000:549)。

[6]礼を尽くして人を招くこと(コトバンク)。

[7] 払いのける(コトバンク)。

 8)いわゆるスサノオの大蛇退治(八雲神詠)。

[9]

[10]

[11]

[12] 死後の名前。

[13] 大声を出す、しるし、なまえ、数字に添えて順序や等級を表す語、乗り物やウマ・イヌなどの名に添える語[ここでは郷と同意か?])

[14] おおきい、さかん、うつくしい、かさなる、続く、うれえる。

[15] おそく生まれること、普通よりおくれて成熟すること。

[16] アトトリ。

[17] 1828、文政11年。

 18) 1830年

 19) 韓国京畿道安山市の区、中国上海市嘉定区南翔鎮にある庭園、明の画家、李流芳(中国語版)の号李氏朝鮮の画家、金弘道の号。

[20]

 10)斎灯を焚き、炭火を神職座や楽屋の火鉢についでまわる役で、2.3人。

 11)神楽太夫の世話役。2.3人。

 12)氏子安全の祈願。

 13)産土(うぶすな)荒神以下の神々への敬虔な総意を伝える。

 14)前段神事が滞りなく終了したことを祝う会。 

 15)焼き石を手刀で割る神事。